社会的責任投資の専門家の立場から - 水口 剛 さん

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- 2050年の責任投資はどうあってほしいですか?

2050年には責任投資は、特別なことではなく、すべての機関投資家がすべの資産運用に適用する「当然の規範」になっていてほしいと思います。同時に、「責任投資とは何か」という理解も、現在とは違うものになっているべきと思います。今はまだ、「ESG要因に着目することで超過収益を求める運用方法」と理解されることもありますが、これは責任投資の発展の途中段階で、最終形ではないのではないか。2050年には「投資を通じて受益者にとってよりよい社会・自然環境を実現し、結果として妥当・適正な利回りもついてくる投資行動」といった理解になってほしいと思います。

その前提となるのは、「資本」という概念の拡張です。貨幣資本だけでなく、自然資本や、互いの信頼感や安心感などの無形のソーシャル・キャピタルも資本の一種であり、それらが増えることは価値の創造、減ることは価値の毀損だと考えます。2050年には世界の経済が成熟して投資機会が減り、金余りとなることで、貨幣資本の重要性が下がり、相対的に自然資本やソーシャル・キャピタルの希少性が高まります。それゆえ、資本主義の理解も、「貨幣の増殖活動」という狭い理解から、「自然資本やソーシャル・キャピタルを増やすことで価値の創造を目指す」という「拡張された資本主義」へと転換すべきです。
しかし自然資本やソーシャル・キャピタルは「私有」できませんから、市場のメカニズムに直接的には乗りにくい。そこで、貨幣資本の所有者(機関投資家)が、引き続き市場を通じたガバナンスの役割を果たしつつ、その行動原理の中に「自然資本やソーシャル・キャピタルの維持・拡大」という規範を埋め込もうということです。それが、2050年の責任投資の意義だと思うのです。

そのことを株式投資に即して言えば、企業の基本的な目的は、単にROEを高めること(株主のためにより多くの利益を上げること)ではなく、(1)より多くの安定的な雇用の機会を生み出し、(2)公正な分配を実現し、(3)豊かな自然環境を回復し、(4)より少ない環境負荷で人類のニーズを満たすこと、だと理解し、責任投資とはエンゲージメントを通じてそのような企業行動を実現することだと考えるわけです。貨幣資本の重要性が低下するにもかかわらず投資家・株主が企業のガバナンスの主体であり続けることに正統性が認められるのは、自然資本やソーシャル・キャピタルを代弁する場合に限られるということです。

また、不動産やインフラ、プロジェクトなどへの投融資では、リスクとリターンだけでなく、環境・社会的インパクトも加えた3次元で考えることが標準、ということになります。

- 現状の延長線上にある社会では責任投資はどうなっていると思いますか?

現状の延長線上には、中東、アフリカ、中国等で政治的・社会的な混乱が起きる可能性もあると思いますし、そのとき責任投資がどうなっているかは予測できません。しかし、中東などの政治的・社会的混乱に巻き込まれるといったことが起きないと仮定するなら、現在のヨーロッパには責任投資の強いモメンタムがあるので、現状の延長線上でも、ヨーロッパでの責任投資は発展していくように思われます。

一方、日本では、2015年にGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)がPRI(責任投資原則)に署名し、責任投資・ESG投資を取り巻く環境が大きく変わりました。今後、責任投資がどのような方向に進むのか、まだ固まっていない混沌とした状況です。「現状の延長線」がどちらに向かうかは、これからの数年間で徐々に決まってくるのだと思います。関係者の努力でよい方向に進むかもしれませんが、そうならない懸念もあります。そこで以下では、あえて悲観的な予測の方を記します。

まず、2050年まで責任投資の担い手が残っているのかという問題があります。GPIFは、今は世界最大の公的年金ですが、2004年の年金制度改正で、年金財政の均衡を図る100年の間に徐々に取り崩し、最終的に給付の1年分程度を保有することになりました。現在のGPIFの積立額は140兆円程度ですが、国民年金と厚生年金の1年間の給付額は42兆円程度ですから、計画通りでも、GPIFの資金規模は今よりかなり小さくなります。予定より少子化が進んだり、非正規雇用の比率が上がったりして、保険料収入が減れば、取り崩し額が増える可能性もあります。企業の経営環境の悪化から、企業年金の数も減っていくかもしれません。すると、アセットオーナーの中で責任投資の中心となる年金の数や影響力が低下していく懸念があります。

その分、アセットオーナーとして存在感を増すのは、個人の超富裕層ではないかと思われます。現在の延長線では経済格差がますます広がり、金融資産の保有が少数の富裕層に集中していく傾向があるからです。その場合でも、運用機関はESG投資を富裕層向けの運用手法の一つとして提案すると思いますが、責任投資が「すべての資産運用に適用される規範」とはならず、運用手法の一部にとどまってしまいそうです。

また、資産保有が偏ると、貨幣資本を多く持たない大多数の人に、貨幣資本への渇望が生まれます。つまり、社会全体で見ると金余りなのに、多くの人は「金を増やすことが大事だ」という価値観に囚われやすくなるということです。本当なら自然資本やソーシャル・キャピタルを大事にすることでもっと豊かになれるのに、社会の支配的な思考様式が金銭的利益を重視する価値観から抜け出せない、ということです。

すると、責任投資に対する理解も「ESG要因の考慮で超過収益を狙う手法」という見方にとどまってしまう可能性があります。特に富裕層向けの提案では、そのような説明がされやすいと思います。それも責任投資の重要な側面の一つですが、それだけだと、外部性への配慮をしにくいので、長い目で見て、自然資本やソーシャル・キャピタルが毀損され、経済活動の基盤自体が掘り崩されてしまう心配があります。

以上は悲観論に偏った見方ですが、2050年にはAI(人工知能)が運用の中心になることで、ますます短期的利益中心の、価格変動の利益をいかに取り込むかという開発競争になっていないか、心配です。

- 2050年に責任投資のあるべき姿に近づくためには、どのようなことが必要でしょうか?

まず、幅広い人々の長期的な利益を代表する年金基金のようなアセットオーナーが責任投資の中核になる必要があると思います。そのためには、富裕層に富が集中する傾向を是正し、分配の公正が実現されるような経済システムを作ることが大事だと思います。

投資に関していえば、受託者責任概念の再定義が必要だと思います。受託者責任の内容は忠実義務(duty of loyalty)と注意義務(prudent person rule)ですが、prudentであるということは、単に貨幣的利益を追求することではなく、自然資本やソーシャル・キャピタルを維持して、長期的な価値を守ることを含んでいると理解する必要があります。受益者に対するLoyaltyの中にも、単に貨幣的利益だけでなく、自然や社会を守ることが含まれるかもしれません。このような受託者責任の正しい理解が浸透する必要があります。そのためには、アナリストや運用担当者の教育も重要だと思います。

その前提となるのは、経済モデルの変革です。今の経済モデルでは、自然資本やソーシャル・キャピタルへの影響を外部性として処理することが多いと思います。しかしそのようなモデルでは、現在私たちが直面している問題の本質を捉えられません。そこで、自然資本の制約や、経済活動のもつソーシャル・キャピタルへの影響とそのフィードバックを明示的に取り込んだ経済モデルを作る必要があります。

経済モデルに自然資本の制約を取り込む例としてわかりやすいのは、CO2排出量です。すでに炭素制約(carbon budget)や座礁資産(stranded assets)の議論に表れているように、CO2排出の制約が経済活動の制約要因としてモデルに組み込まれ始めています。同じことは、水の制約や漁業資源の枯渇など、CO2以外の側面でも応用できます。一方、分配の不公正が社会内部の対立や憎悪を増やし、社会不安から経済の停滞につながる、といった構造は、十分モデル化されていないようです。しかし、たとえばILO(国際労働機関)は、2012年に公表した報告書『総需要は賃金主導か、利益主導か(Is aggregate demand wage-led or profit-led?)』の中で、賃金の抑制が総需要の減少につながるという分析を示しています。こういった分析の延長線上に、ソーシャル・キャピタルを組み込んだ経済モデルを構想することができるかもしれません。

EUやイギリスに見られるような、機関投資家に責任投資を促す制度的枠組みを作ることも重要だと思います。

 

-丁寧に応えてくださり、本当にありがとうございます。責任投資の未来についての本が1冊できそうなほどです。評議員としてSus-FJに参加いただいている水口さんには今後もいろいろとご教示いただきたいと思っております。改めましてこのたびは、誠にありがとうございました。

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